1975年4月19日午後1時、東京都杉並区阿佐ヶ谷の町は、天井桟敷による市街劇の舞台と化した。
 同時かつ連続的に演じられる18の演劇。演ずるのは、天井桟敷の俳優であったり、阿佐ヶ谷に住む人々であったり、または全国から一枚の地図を持って訪れた人々であった。
 時には、観客として、時には演者として人々が目指したものは、住所という名の地平線を観測する試みだった。

市街劇「ノック」のプロローグとして、観客は、あらかじめ購入していた「住民票(転入届)」と地図を引き換える。
地図には、この劇が同時多発的に引起す「戸別訪問演劇」「密室演劇」「街頭演劇」などの十八点におよび、ゲスト参加の建築家、ヴィデオ作家、彫刻家らのイベント工作地点が記入されてある。観客は、この一枚の地図を入手したときから、市街劇「ノック」に参加することになるのである。

三つの箱を作り、その中に一人ずつ、観客を幽閉する。嗅覚、触覚、視覚、聴覚を奪われた観客は他者との伝達手段を何一つ持つことが出来ずに自分のいる場所と、経過してゆく時間の確認方法を喪失する。やがて、箱が開いた時、観客は見知らぬ土地へ運ばれて来たことを知るのである。そこから帰宅する途は観客自身が探さなければならない。

この空中散歩者は、零重力夢想家であり、水平的生活に満足できず、自ら上昇の力動的想像力機械「空中のゴンドラ」を実現したが、常に引力から逃れることができぬ為、全ての生活が円運動による円軌道の軌跡をたどらなければならなくなった。常に円弧を描きながら、空中で食事から排泄までを行なう一人の男と、その中心点となる地上の家とが、一時間ずつ「番地」を共有することで、住所とは何かを検証する試み。
これは銭湯における演劇ではなく事件である。銭湯全裸男体操事件。事件はそれだけである。
しかし、この事件とは関係なく集まってくる観客も、今まで来た事もない銭湯で、全く見も知らぬ裸の男達と出会う。これは裸の出会いを組織する試みである。
フレドリック・ブラウンの小説に、ある男に見知らぬ差出人から、毎日手紙がとどき、それによって次第に人生が変ってゆく、というのがある。私もまた、そうした手紙の差出人になって、平和な家庭に一つの戯構を持ちこんでみたいと考えた。
 ある連続した現実原則に、異物をはさみこむことによって、その原則にべつの転回点を与えることが、劇化であり、原則の偶然性を想像力によって再組織してゆくのが、ドラマツルギーだとするならば、これもまた演劇の一形態に他ならないからである。


「天井桟敷新聞」NO.10より。
 まず最初に、「市街劇」の概念とは何かということについて、寺山修司の文章から引用してみることにしよう。

 「それは、単に『市街』を私たちの演劇のための舞台とする、ということではなく、市街の日常の現実原則を、丸ごと演劇として抱えこむ、ということであった。」
(「ドアを叩くのは誰?」 演劇理論誌「地下演劇」7号所収より)
 この、「市街の日常原則を丸ごと演劇として抱えこむ」とは、一体どういうことなのか。

 天井桟敷による「市街劇」の最初の試みは、一九七〇年の「イエス」(竹永茂生作・演出)に始まるという。
 天井桟敷館の地下劇場から街に出て、バスで観客とともに芝居が移動するというこの演劇の、当時の評によると、こうある。

 「観客ごとバスで引っ越す変なお芝居」(中日新聞)

 「何事かと路上でバスを止めた、役者、観客約五十人がパトカーと時ならぬ街頭演劇」(朝日新聞)

 「夜の神宮外苑で芝居がエスカレート、大暴れ、殺到するアベックの苦情に警察カンカン」(内外タイムス)

 「ハイジャックならぬリビングジャック!」(東京中日新聞)

 最後の“リビングジャック”というのは、俳優と観客がバスに乗って都内のとあるマンションの一室に赴くというもので、そこの住人は実は俳優なのだが、何十人もの人間がゾロゾロとバスに乗って戸別訪問をしたために、他の住人から一一〇番への通報があったという。
 この演劇においてすでに、「市街劇」は一般市民や警察を巻き込んで、別の状況を生んでいたのである。


「天井桟敷新聞」NO.11より。



「人力飛行機」
新宿編上演地図より。
 同じ年の十一月には、市街劇「人力飛行機ソロモン」が新宿一帯、及び早稲田大学構内において初演される。「人力飛行機ソロモン」は、翌七一年にはフランスのナンシーと、オランダのアーヘムでも上演され、話題を呼んだ。

 海外公演では、「一メートル四方一時間国家」という演劇の大きな原基となる“場”が設定された。それは、一時間ごとに二倍の大きさに成長してゆくという、“見えない劇場”のようなものであった。
 そして寺山は、
「そのたった一時間二時間三時間というふうな単位で維持された国家がそこに存在し、そして消滅してしまった事によって現実原則の政治的な国家、アンリ・ルフェーブルのいうような日常生活に疑問符というか、水輪が生まれればいい。」

(市街劇「人力飛行機ソロモン」総括座談会 演劇理論誌「地下演劇」5号所収より)

と、語っている。それは、「国家論」のための一つの比喩であるともいえた。

 やがて、この「市街劇」の発想は様々な試行錯誤をもって増殖を続け、一九七五年四月十九日午後三時から、翌二十日午後九時に渡って“30時間市街劇”「ノック」(寺山修司企画・岸田理生台本・幻一馬構成・演出)が、東京都杉並区阿佐ヶ谷一帯において上演されることとなる。
 なぜ、上演場所に阿佐ヶ谷が選ばれたかというと、人口、世帯の家族構成、選挙などのデータ等を分析して、その舞台に選ばれたのだということである。
 さて、「ノック」を上演するにあたり、天井桟敷では長期ワークショップを組み、都市訓練、住民調査、尾行報告、河川、マンホールから住居にいたる測量を行い、さらに疑似住み込みを行ったりもして、「市街劇教程」を作成していったという。

「その頃、『石畳の下は砂浜だった』という、パリの五月革命のナンテールの壁の落書が、私たちをとらえた。私たちは、劇場の中の演劇と共に、外の演劇もなおざりにするわけにはいかなかった。市街劇『人力飛行機ソロモン』は、その『新宿版』を皮切りに『高田馬場版』『ナンシー版』、『アーヘム=ソンズビーク版』『ホルストブルー版』と展開してゆき私たちは『石畳をめくる』作業をくりかえしてきたのだった。
 一メートル四方一時間国家からはじめて、それを無限に拡大してゆく『人力飛行機ソロモン』という劇の構造は、天井桟敷演劇の一つのテーゼとなり、その中で、劇の生成と消滅とがくりかえされていった。だが、日常的な現実原則(とりわけ、習慣という名の怪物)は、こうした市街の演劇も、カーニバルとして補充し、いわば生活時間の小休止というかたちで受けとめてしまうのであった。
 どこまで深くクサビをうちこむことができるのか?」

(「ドアを叩くのは誰?」前出)



「ノック」
上演地図より。
“30時間市街劇”「ノック」は、これらの反省から、天井桟敷公演史上最もアヴァンギャルドで、過激な作品となった。

 この演劇はチケットは発売されず、そのかわりに一枚の「地図」が販売される。観客はこの「地図」を手に街を歩きながら、演劇を探して回ることになるのだ。
「地図」には、この演劇が同時多発的に引き起こす18のイヴェントの工作地点が記されているのみである。

 それらには、次のようなものがあった。

「地図引換人」
「劇場を捜す一人の観客」
「青猫化粧館」 「便所のマリア」
「気まぐれバスA」 「気まぐれバスB」
「ヒューマンボクシング」 「地下病棟」
「注文の多い料理店」 「空中散歩者」
「銭湯における男事件」 「壁の消失」
「書簡演劇」 「家族中継/戸別訪問劇」
「四十二番地の玉突き」 「ラジオ」

……などの、18項目である。

これらの演劇のいくつかのパートが住民との間に摩擦を生み、阿佐ヶ谷住民の抗議で警察が介入、新聞の社会面を賑わす事となる。

 そもそも「ノック」とは、そうした住民の閉ざされたドア、閉ざされた心をノックしてみるという意味で付けられたタイトルであった。

「私たちが、市街劇を企図するとき、主役である地域住民の平凡な日常現実の中に、異物を持ちこみ、疑問符をさしはさみ、『あなたの平穏無事とは一体何なのか?』と問いかけることなのであるから、市民がまき込まれることは、当然の成り行きなのであった。」

(寺山修司「市街劇『ノック』上演の真意/閉ざされた心への訴え」朝日新聞掲載)

 これが上演企図だとするのであれば、新聞沙汰にもなった芝居の一部は、寺山らが“主役である地域住民の平凡な日常現実”の中に持ち込んだ「異物」によって住民たちが反応し、非日常生活での「劇」を演じたことに他ならないと考えれば、この一点においては、まんまと成功したといわねばなるまい。
 しかし、成功か失敗かを論じる以前として、これらのスキャンダラスな部分だけが表面化してしまった陰に隠れて、寺山が意図していた切実な問いかけは、その後も充分に検証されなかったように思える。

 残された「ノック」の時刻表を見ると、観客側よりもむしろ天井桟敷スタッフの方に緊迫感が強くあった公演ではなかったか、という気さえする。
 実際、警察の介入により予定通りの劇の続行は不可能と判断し、「市街論」へと即興的に展開させ、別の「ノック」という演劇を行うと提案する寺山と、「このまま続行」を主張する構成・演出の幻一馬を中心としたスタッフの間で、意見の対立が生まれた。寺山はこの時に、天井桟敷退団を表明している。
 この溝は埋らず、「ノック」終演後、構成・演出の幻が責任をとって天井桟敷を退団するという結果となった。


「人力飛行機舎ニュース」1より。
しかし寺山は、最期まで「市街劇」にこだわり続けたという。
 幻の企画となってしまった“市街劇”「犬」の上演告知が、「映画実験室・人力飛行機舎ニュース・1」(一九七七年五月十六日発行)に掲載されている。

「病床のなかでも、こんな具合に企画はどんどん広がっていった。さらに演劇では市街劇をもう一度やりたいなどと言っていた。『イエス』や『ノック』もそうだったが、制作的にものすごく困難な市街劇を敢えてまた、である。当時、劇場空間への回帰という風潮が強かったし、何もまた劇場を破って外に出ていかなくても……、それもそんな体力じゃできるわけがないじゃない……と言っても、『やりたいんだ』と。寺山は、それまでよりもさらにラディカルな演劇構想を持っていたようだ。」

(九條今日子「墓場まで何マイル?〜寺山修司が残していった企画書」
「太陽」1991年9月号所収より)

 これは、天井桟敷のプロデューサーであり、寺山の良き理解者の一人でもあった九條今日子氏の証言だ。
 あの、すべてが何者かに飲み込まれてしまった感さえある八十年代において、寺山修司が敢えて「市街劇」を上演していたとすれば、どんなことが提示されていたであろうか。

 寺山修司の「市街劇」に対する理念は、次の寺山自身の言葉に強く表れている。

「そして、それは次の機会の市街劇へと手渡され、やがて訪れるべき、世界中の市街が劇場化し、歴史が虚構によって再編される日と、通底することになるのではなかろうか。」

(「ドアを叩くのは誰?」前出)

「市街劇」とは、寺山修司と天井桟敷スタッフが大胆かつ繊細に組み上げていった、市街を劇的想像力でもう一度読み解いて行こうとする試みでもあったのだ。


 <参考文献>

 「地下演劇」5号 (1972年8月 天井桟敷)
 「地下演劇」7号 (1975年7月 天井桟敷<地下演劇>編集委員会)
 「太陽」(1991年9月 平凡社)
 「寺山修司記念館2」寺山偏陸・責任編集(2000年10月 テラヤマ・ワールド)